『巨人の星』(きょじんのほし)は、原作:梶原一騎・作画:川崎のぼるによる日本の漫画作品。本項では、続編である『新巨人の星』についても併せて解説する。 主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手だった父・星一徹により幼年時から野球のための英才教育を施される。プロ野球の読売ジャイアンツに入団後、ライバルの 85キロバイト (13,762 語) - 2022年4月30日 (土) 14:15 |
貧乏だからかな…mj
1 征夷大将軍 ★ :2022/07/30(土) 08:07:19.31ID:CAP_USER9
現代ビジネス2022.07.30
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97858
(前略)
文学青年の宮原が以前から考えていたのは、「文学と肩を並べるマンガ」だ。マンガは絵本に毛が生えた程度の「子どもの読み物」と見られていた時代。『ちかいの魔球』で引き上げた年齢層もせいぜい高校生までで、まだ「マガジン」を読む大学生や社会人などいなかった。
出版業界でもマンガ編集者は一段低く見られており、その反発もあったようだ。この機会に、吉川英治の『宮本武蔵』のようなひとりの男の人生を描いた重厚な物語を作りたいと考えたという。
「人間を描ける原作者ということで、以前からマガジンでやっていた梶原(一騎)さんに目をつけました」と宮原は話す。
梶原は「マガジン」史上初めて実写ドラマ化されたプロレスマンガ『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)以来、『ハリス無段』(画・吉田竜夫)、『魔犬ムサシ号』(画・石川球太)、『姿なき英雄』(画・荘司としお)など、「マガジン」で原作者として活躍していた。
内田編集長とともに、練馬区大泉学園の建売住宅に住んでいた梶原を初めて訪ねたのは10月に入った頃だった。
■「星飛雄馬」の名前の由来
当初、梶原は決して乗り気ではなかったらしい。
180センチを超える巨体や素人離れした風貌に似合わず、梶原は宮原にも負けない文学青年という一面も持っている。それまで「マガジン」の仕事はしていたが、内心はあくまで小説家志望であり、マンガ原作など「食うための日銭稼ぎ」でしかない。
その梶原も三十路を目前にし、いよいよ本格的に小説に取り組もうと考えていた。いつまでもマンガの筋書き作りなんてやってられるかよ――という気持ちが強かったようだ。
渋っていた梶原の心を動かしたのは、「マガジンの佐藤紅緑になってください」という内田編集長の言葉だった。佐藤紅緑とは、梶原や内田の少年時代に活躍した大衆小説家。「少年倶楽部」に発表した『ああ玉杯に花うけて』などの“熱血”少年小説でも人気を博した。
その気になった梶原は、「巨人軍に入団したサウスポーの天才投手が、数々の魔球を投げて活躍し、最後は破滅する」という『ちかいの魔球』のプロットをベースに、『宮本武蔵』と『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン)を合わせた主人公を生み出した。
「主人公が武蔵だと、ちょっと荒々しいと梶原さんは言いました。そういう要素は持っているんだけど、表面はもう少し穏やかにして、次々と襲ってくる苦難を乗り越えていくジャン・クリストフのような人物にしたいと。それから1ヵ月くらいで、キャラクターやストーリーの大筋を作ってきたんです。『青春群像劇にしたい』というのは僕の意見ですが、具体的な人物像はすべて梶原さんが考えたものです」(宮原)
「飛雄馬」という印象的な名前は、「ヒューマン」と「(坂本)龍馬」から梶原が命名したもの。マンガで「人間を描きたい」という梶原や宮原の熱い志が感じられる。ちなみに内田編集長は少年読者に読みにくいことを心配して「明」という代案を出し、この名前は飛雄馬の姉(明子)に使われることになった。
宮原は「巨人軍での活躍を経て、最後は大リーグ(メジャーリーグ)に行くのはどうか」という構想を話したが、「リアリティがないよ」と梶原に却下されたという。60年代当時は日米の野球レベルに大きな差があり、今のように日本人選手がメジャーリーグで活躍するなど少年マンガでさえ無理があると思われていたのだ。
「飛雄馬が投げる魔球が『大リーグボール』というのはその名残なんです」と宮原。なお『ちかいの魔球』のときと違って、3種類出てくる大リーグボールの「変化」と「原理」はすべて梶原が考えたものだ。
梶原が最初に挙げたタイトルは『巨人軍の星』だったが、「野球よりも人間ドラマを描いてほしい」という宮原の意見で「軍」が取られ、より文学的な『巨人の星』になった。
連載を始めるに当たって、ひとつ厄介な問題があった。当時、集英社が読売ジャイアンツを雑誌に載せる独占使用権を持っていたのだ。そのままでは飛雄馬に巨人軍のユニフォームを着せられないし、川上監督や長嶋選手など実在の人物を登場させることもできない。
内田編集長は正面から巨人の球団事務所を訪ね、必死に協力を依頼する。その説得が実り、広報責任者の坂本幸夫はその場で全面的な協力を約束してくれた。集英社に契約の破棄を申し入れ、「マガジン」には使用料も請求しなかったという。
※一部略
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97858
(前略)
文学青年の宮原が以前から考えていたのは、「文学と肩を並べるマンガ」だ。マンガは絵本に毛が生えた程度の「子どもの読み物」と見られていた時代。『ちかいの魔球』で引き上げた年齢層もせいぜい高校生までで、まだ「マガジン」を読む大学生や社会人などいなかった。
出版業界でもマンガ編集者は一段低く見られており、その反発もあったようだ。この機会に、吉川英治の『宮本武蔵』のようなひとりの男の人生を描いた重厚な物語を作りたいと考えたという。
「人間を描ける原作者ということで、以前からマガジンでやっていた梶原(一騎)さんに目をつけました」と宮原は話す。
梶原は「マガジン」史上初めて実写ドラマ化されたプロレスマンガ『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)以来、『ハリス無段』(画・吉田竜夫)、『魔犬ムサシ号』(画・石川球太)、『姿なき英雄』(画・荘司としお)など、「マガジン」で原作者として活躍していた。
内田編集長とともに、練馬区大泉学園の建売住宅に住んでいた梶原を初めて訪ねたのは10月に入った頃だった。
■「星飛雄馬」の名前の由来
当初、梶原は決して乗り気ではなかったらしい。
180センチを超える巨体や素人離れした風貌に似合わず、梶原は宮原にも負けない文学青年という一面も持っている。それまで「マガジン」の仕事はしていたが、内心はあくまで小説家志望であり、マンガ原作など「食うための日銭稼ぎ」でしかない。
その梶原も三十路を目前にし、いよいよ本格的に小説に取り組もうと考えていた。いつまでもマンガの筋書き作りなんてやってられるかよ――という気持ちが強かったようだ。
渋っていた梶原の心を動かしたのは、「マガジンの佐藤紅緑になってください」という内田編集長の言葉だった。佐藤紅緑とは、梶原や内田の少年時代に活躍した大衆小説家。「少年倶楽部」に発表した『ああ玉杯に花うけて』などの“熱血”少年小説でも人気を博した。
その気になった梶原は、「巨人軍に入団したサウスポーの天才投手が、数々の魔球を投げて活躍し、最後は破滅する」という『ちかいの魔球』のプロットをベースに、『宮本武蔵』と『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン)を合わせた主人公を生み出した。
「主人公が武蔵だと、ちょっと荒々しいと梶原さんは言いました。そういう要素は持っているんだけど、表面はもう少し穏やかにして、次々と襲ってくる苦難を乗り越えていくジャン・クリストフのような人物にしたいと。それから1ヵ月くらいで、キャラクターやストーリーの大筋を作ってきたんです。『青春群像劇にしたい』というのは僕の意見ですが、具体的な人物像はすべて梶原さんが考えたものです」(宮原)
「飛雄馬」という印象的な名前は、「ヒューマン」と「(坂本)龍馬」から梶原が命名したもの。マンガで「人間を描きたい」という梶原や宮原の熱い志が感じられる。ちなみに内田編集長は少年読者に読みにくいことを心配して「明」という代案を出し、この名前は飛雄馬の姉(明子)に使われることになった。
宮原は「巨人軍での活躍を経て、最後は大リーグ(メジャーリーグ)に行くのはどうか」という構想を話したが、「リアリティがないよ」と梶原に却下されたという。60年代当時は日米の野球レベルに大きな差があり、今のように日本人選手がメジャーリーグで活躍するなど少年マンガでさえ無理があると思われていたのだ。
「飛雄馬が投げる魔球が『大リーグボール』というのはその名残なんです」と宮原。なお『ちかいの魔球』のときと違って、3種類出てくる大リーグボールの「変化」と「原理」はすべて梶原が考えたものだ。
梶原が最初に挙げたタイトルは『巨人軍の星』だったが、「野球よりも人間ドラマを描いてほしい」という宮原の意見で「軍」が取られ、より文学的な『巨人の星』になった。
連載を始めるに当たって、ひとつ厄介な問題があった。当時、集英社が読売ジャイアンツを雑誌に載せる独占使用権を持っていたのだ。そのままでは飛雄馬に巨人軍のユニフォームを着せられないし、川上監督や長嶋選手など実在の人物を登場させることもできない。
内田編集長は正面から巨人の球団事務所を訪ね、必死に協力を依頼する。その説得が実り、広報責任者の坂本幸夫はその場で全面的な協力を約束してくれた。集英社に契約の破棄を申し入れ、「マガジン」には使用料も請求しなかったという。
※一部略